「先輩、どうぞ」
「……失礼します、」
黒い、肌触りの良いシートにするりと腰を下ろす。なんだかどんな体勢にいてもしっくりこなくて落ち着かないのは、それが元後輩の車だから、だろうか。
——同窓会なんて、そんなものに律儀に出る柄ではないのは分かっていた。けれど、郵便物の山から「同窓会の御招待」 という文字を見つけ出したとき、行かなければ、と直感的に感じたのだ。
今思えば、何故あの時の私はテニス部のマネージャーなどというものをしていたのか。それは今となっては永遠の問いである。友達にでも誘われたのだろうか。暇を持て余していたのだろうか。何れにせよ、今はもう細かいことは深い霧に覆われたように曖昧で思い出せない。ただ、彼ら……部員と過ごした日々が楽しかったことだけは否定しようのない確かな事実だった。
その中でも私を「先輩」と慕ってくれていた彼の容姿と声は、あの痛いくらいに目立つ部長以外ではただ一つのはっきりとした記憶だった。
あまり愛想の良くない私は他のマネージャのように部員と友人であれ恋人であれ親密な関係になることはなかったけど、彼だけは理由もなく私に話しかけに来た。
「鳳くんと付き合ってるの?」と話の流れで聞かれることもしばしばあったが、私はその都度しっかりと否定し、煙を立たせないように努めた。彼が私のことをどう想っていたかは定かではないが──きっと、どんな形であれ私を好いていたことは間違いない。嫌いな人物に積極的に話しかけに来るなど、そんなとち狂った考えを彼が持ち合わせているとは思えないのだから。
彼は誰にでも優しかったということは覚えていたので、私に向けられる"ソレ"が特別なものだったのかというと首を傾げる他ないだろう。ただ、私は彼を特別な意味で好きというわけではなかったし、中途半端に付き合うのは良くないという漠然とした意思を持っていたので、特に何の進展もないまま私は彼を置いて先に卒業した。
しかし、招待状の文面を読んだ瞬間、ふと私の頭には彼が浮かんだのだ。彼は今、どうしているのだろうか。些細な出来心で、私は出席の文字に丸をつけてしまったのだった。
「俺、今日驚いたんです」
鍵を回し、エンジンをかけながら鳳君がふと零した。先程出てきたばかりの跡部グループが経営しているという高級ホテルを見上げていた私は、その視線の先を彼に向ける。彼は既にハンドルを握り前を向いていた。
「何が?」
「……先輩、あまりこういうの得意そうじゃないですから。来てくれないと思ってました」
ご名答だ。だから嬉しくて、と微笑んだ彼に少し申し訳なくなった。本当に、今日は来て良かった。……もし、鳳君という存在がいなければ十中八九足を運ぶことはなかったが、それは仮定の話である。忘れることにしよう。
そっか、とだけ返して、動き出した街並みを目で追った。家は二駅先だし、職場もここから遠いから、あまり見慣れない風景だ。赤に、黄色に、時折緑に光るネオン街の眩しすぎる電光の波。僅かに目を細めた。滲む光。
履きなれない高いパンプスの踵が痺れた。無駄に気合を入れてきてしまったから、体中が悲鳴を上げている。でも、そんなことを意識する余裕もないほどに、私は彼という存在を視界に入れないよう努めた。正直、高校を卒業してから色恋沙汰の一つや二つも無かった私には、男の人、そして二人きり、というシチュエーションすらキャパオーバーなのだ。許して欲しい。勿論優しい彼はそれに何を言うでもなく、静かにハンドルを回している。彼はとても丁寧にブレーキペダルを踏む人だった。
ふと、彼が車を道路脇に停車させた。不思議に思い振り向けば、不安の色を色素の薄い虹彩に乗せこちらを見ていた。意図せず、ぐわりと上昇する体温。落ち着け、私。こんなことで狼狽えるなんてらしくない。先輩の威厳を保たなければ。
ひとつ、ふたつと息をそっと整える。しかしそんなことで落ち着くほど大人しく従順な心臓なわけがなく、鼓動は浮ついた想像に速まるばかりだ。
「……どうしたの?」
「ちょっと。……さっきの話の続き、してもいいですか?」
「えっ、……うん」
声が上ずる。「先輩らしさ」を意識すればするほど理想から遠のいていく。わからなかった。どうして私は可愛い元後輩にここまで焦らされているのだろう。しかも勝手に、という要らぬオマケ付き。
私の返事に、彼の柔らかい目元が緩んだような気がした。──ああ、そうか。こんなにドギマギしてしまうのは、彼の一挙一動から緊張の色が滲み出ているからだろう。緊張は移る、と言うけれど、こういうことなのかもしれない。
そう思ってしまえば妙に冷静な思考になる。しかし頭は覚めきっているはずなのに、やはり心臓をキツく甘く締め付けれる感覚だけは残っていた。
「先輩の姿が見えた時、本当に嬉しかったんです。……でも、少し不安になった」
何が、と漏らす前に、彼が私の毛を少しだけ掬い上げ、口付けを落とした。あまりにも突然で、衝撃的で。意味を理解しても、わなわなと唇を震わすだけで、ちゃんとした言葉になりもしない。
ふっと少し挑発的に甘く微笑んだ彼は、纏う雰囲気が少し違うように思える。それがまた、私を動揺させた。
「すごく綺麗になってたから。……他の先輩達と話してる時とか、もう、」
「……鳳くん?」
「……すみません。困らせるつもりは無かったんですけど、」
それは、私を独占したいという彼の告白同然だった。
シートの上に置いた手の上に、彼のふたまわり以上大きな手が重なる。その手は、緊迫のせいかしっとりとした熱を持っていた。目が合って、逸らしたくても逸らせない。私の身体が抵抗できないのは、単純な力の差の問題とは思えなかった。彼の必死さが、私の身体を射抜いて捉えて離してはくれない。離してほしいとも思えない私も、彼に負けず劣らずおかしかった。
「先輩が好きです。ずっと、あの頃から」
期待が確信に変わる瞬間。
私も。そう頷いたら、きっと、私は。