彼が入学してきた当時のことを、私は今でもはっきりと覚えている。新入生の入学。それに伴い私たち先輩が必死になるのは、何を隠そう部活動勧誘だ。最も、私は勉強に専念したいとの思いから入学してこの方一度も部活に励んだことはなく、一貫して帰宅部を貫いているのだが。それでも、毎日毎日放課後の勧誘合戦に明け暮れる友人の話を聞いて、漠然と彼女らの危機感に首肯していた。桜もとうに散り、新入生たちも大方自分の所属する部活を決めた頃。ついこの間まで勧誘に明け暮れていたとある友人が、嬉々として私に声を掛けてきたのだ。
「男テニに、めっちゃ綺麗な子が入ったの!」
一度見に来て、きっと気に入るから!男テニのマネージャーを務める彼女にそう強く手を引かれ、流されるままに放課後のテニスコートへと向かう。うちの学校のテニス部は、ここ十数年と全国に名を轟かせる強豪校らしい。試合の時期になれば痛いほど耳にするその話題には、自分とはどこか遠いように思えて、あまり実感がなかった。こうして、実際のプレーを目の当たりにするまでは。
その日は、正式に入部した一年生たちの実力を図る簡単な模擬戦を行っていた。経験者が多かったらしい今年の一年の実力を見る、という趣旨のものだそうで、慣れた動きをしている子もいれば、最初の一球をなかなかコートに届かせられない子もいた。そんな中、一際目立っていた子が一人。聞かずとも、マネージャーの彼女が話していたのはこの子だと悟った。
その少年は、名を「幸村精市」と名乗った。
*
「……で、どうしてここに」
「どうしてか知りたいですか?」
「知りたいから聞いてるんだけど」
私が中等部二年のときに知った彼と初めて話したのは、高等部に上がってからのことだった。高等部に上がると、申請をすればアルバイトができるようになると聞いた私は、速攻で申請書類を書き上げて提出した。場所は、中等部の校舎から程遠くない喫茶店。知り合いが経営しているそこで、社会経験というお題目のもと働かせてもらうことになった。本当は小遣い稼ぎが目的だけれど。
そんなバイト先に突然現れた彼、幸村くんは私を見つけるや否や「高等部の〇〇さんですよね」と私に声を掛けてきた。当時の二年の間でちょっとした話題になっていた見目麗しい少年は、その確かな実力で着々と上り詰め、今や強豪・立海大附属中男子テニス部の部長らしい。それもまた「神の子」だったか、そんな大層な肩書が付与されていると聞く。そんな所謂有名人が、何の変哲もない高等部の一生徒の事を認知しているとは思わず、私は彼の呼びかけに瞬時に反応を返すことができなかった。
「先輩が、ここでバイトしてるって聞いたので」
「で、どうしてそれがここに来ることになるの」
「一度先輩と話してみたくて。駄目、ですか?」
どうして私と。そんな言葉をグッと飲み込んで、机の上に備え付けられているメニューを幸村くんへと押しやった。返す言葉を必死で探す傍ら、上手く見つからないのを隠すような私の胸中はどうやらお見通しらしく、幸村くんは「確かにここは喫茶店ですね」と笑う。
「先輩のオススメ、聞いてもいいですか?」
「あっ、えっと、これ……かな」
「じゃあ、それで」
できるだけ幸村くんの顔を見ないように、手元に意識を集中させて、伝票にボールペンを走らせる。いつもより手元の力んだ文字は、裏写りしたボールペンの強い痕ではっきりと私の緊張具合を表現している。さっきから逸る心臓を抑えるので精一杯だ。カップを持つ手も震える。どうしようもない振動が伝わったカップは、僅かにカタカタと音を立て、淹れたての珈琲の芳ばしい香りを充満させていく。
「美味しい、ありがとうございます」
「……そう、よかった」
「先輩がオススメしてくれたから、美味しく感じるのかも」
「は、」
あからさまに心拍数が上昇するのを感じた。中等部の頃の私は特に部活には属さず、その分の放課後はいつも図書室での自習に明け暮れていた。図書室での自習はいつでも分からないところ先生に聞きに行けるという利点や、環境として集中できるということ、それから調べものが早いという利点と。それから、窓際の席からは「男子のテニスコートがよく見える」という利点があった。そう、何を隠そう友人の思惑通り私は幸村くんのファンだった。時にいちファンとしての行き過ぎた、恋心によく似たような感情を抱くことすらあったほどに。
そんな雲の上の、憧れの存在であった幸村くん。そんな幸村くんが、今私の目の前で、私の淹れた珈琲を、美味しいと言って飲んでいる。あまつさえ、私と話してみたかっただなんて。惚れ薬なんてものがあるならこの珈琲に混ぜておいてやりたかった、そう思うくらいには行き過ぎた私の感情の、歯止めが効かなくなる。それだけは避けたくて、必死に理性を総動員して言葉を探す。
「そうやって、変に勘違いさせること簡単に言うの、よくないよ」
「……俺、先輩に勘違いしてほしくて来たんですけど」
「なにを言って、」
「先輩は、簡単には勘違いしてくれませんか?」
露骨に言葉に詰まる私を他所に、幸村くんは私のそんな反応を面白がっていた。勝てるとも思っていないけれど、勝てない。歳下だというのに、私よりも一回りも二回りも余裕のある幸村くんは「また来ます」とだけ言い残し、珈琲を飲み干して席を立つ。手早く会計を済ませ、去っていく幸村くんの背中を見送った後。今日が締め切りだった来月のシフトを、原案よりも多く書き換えて再提出した。